HOME > 下呂温泉を知る
飛騨川の流域に湧く下呂温泉は室町時代京都五山の僧万里集九や、
徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者林羅山により、
兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並ぶ「日本三名泉のひとつ」と称された天下の名泉です。
温泉街は飛騨川を中心に歓楽的な賑わいと山里の風情が調和して、下呂温泉の魅力を醸し出しています。
下呂の温泉街から4キロほど離れたところに、湯ヶ峰という海抜1,067mの山があります。この山はおよそ10万年前に噴火した火山といわれ、下呂温泉は最初、この湯ヶ峰の頂上付近で平安時代の中頃にあたる天暦年間(947~957年)に発見されました。
下呂温泉の発見年代については、この天暦年間とする書のほかに延喜年間(901~923年)と記した書物もあります。八代将軍の飛騨代官を勤めた長谷川忠崇が、将軍吉宗の命により完成した「飛州志」には天暦年間とあり、「飛騨編年史要」には延喜年間とあります。
鎌倉時代中頃の文永2(1265)年以前のある日突然、湯ヶ峰の頂上付近で湧出していた温泉が突然出なくなり、現在源泉地といわれている場所、即ち温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見されました。温泉の再発見にまつわる話は「白鷺伝説」として今に伝わっています。
温泉の出る場所が、海抜1,067mの山中から平地に移動し、温泉の利用が大変便利になり、名泉の評判が各地に広がっていきました。室町時代の末期延徳元(1489)年には、全国各地を紀行した京都五山の僧、万里集九も下呂温泉を訪れその名泉ぶりを讃えています。
下呂温泉が名湯であることを初めて天下に紹介したのは、室町時代の京都五山の僧、万里集九でした。その詩文集『梅花無尽蔵』には「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり」と記されています。
江戸時代には儒学者林羅山も万里集九と同様の評価をしており、『林羅山詩集第三西南行日録』には「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」とあり、さらに「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、入湯する人はその験を得ざることなし」と続き、下呂温泉が名湯であることを伝えています。
岐阜県立下呂温泉病院では、温泉を利用したリハビリ施設があります。